宮本翁頌徳碑平成30年(2018年)は明治元年(1868年)から数えて、ちょうど150年の節目に当たります。

明治維新によって封建体制から近代国家へと時代が大きく転換した150年前、産業と言えば従来の農業中心であった和歌山県(当時は藩)においても、後の県経済を支えることになる「工業」発展の兆しが見えようとしていました。

和歌山県誕生前の明治2年、藩は有力な商人有志らとの共同出資により「商会所」を設立しました。商会所は藩における殖産興業を目的とした結社であり、本県における最初の「会社」組織とされています。名前は似ていますが現在の「商工会議所」とは関係ありません。

商会所では当時の藩の軍隊で用いるための、軍装用の肌着と靴を生産する事業を起ち上げ、これらが発端となって後の「綿ネル」および皮革産業という県を代表する地場産業として発展しました。

藩では以前から、松葉などで起毛して足袋などに用いる、紋羽織(もんぱお)りと呼ばれる綿織物が特産品として生産されていました。この在来技術を改良し、和歌山県内で発明されたのが、当初「毛出し木綿」とよばれた綿ネルです。綿ネルは綿織物に起毛加工を施した丈夫で軽く保温性のある生地で、西洋のフランネル織(毛織物)を模したことから綿フランネル(略して綿ネル)と呼ばれます。

紀伊国名所図会より「紋羽織屋」
図1 紀伊国名所図会「紋羽織屋」(国立国会図書館デジタルコレクションより)

紀伊国名所図会より「紋羽織屋」(部分、その2) 紀伊国名所図会より「紋羽織屋」(部分、その1)
図2 同「紋羽織屋」の部分 櫛のような道具を手に持ち、布に起毛している様子が描かれている。

綿ネルの創成は明治4年~5年ごろとされています。「紀州ネル」とも称されるこの和歌山県オリジナルの「コア技術」の創始者については諸説があり、和歌山県士族畠山義信、商会所手代の瀬戸重助、裁縫職の宮本政右衛門などの名前があげられています。

産業技術の進歩に伴って綿ネルは他の織物やニット、化学工業や染色といった次世代の県主力産業へとその王座を譲り、やがて衰退して現在ではほとんど生産されていませんが、県産業の工業化のさきがけとなり、これらの産業発展の基盤となったという意味において、近代和歌山県における最初のコア技術と呼べるのではないでしょうか。

※冒頭写真:宮本翁頌徳碑(和歌山市道場町の浄専寺)


(参考文献)